2011/09/23

旅の最後はシカゴ

9月14日が私にとって最後の研究会。しかも自分の発表。この日は,ノルウェーとつないでの研究会だった。あいかわらずのへたれ英語であったが,バルジナーさんが内容を気に入ってくれたのでまあよかったことにしよう。




9月19日,ほぼ一人で二ヶ月半を過ごした(主のバルジナーさんがほとんど不在だったからね)アパートに別れを告げ,雑然としたリビングルームで記念写真を撮った。



昼に近くのレンタカー屋までバルジナーさんに送ってもらい,その足でノースボロの日本人のお宅で昼食をいただき,夕刻,以前住んでいたアパート仲間の日本人宅で夕食をごちそうに。

本当は二年半前にヨリコと部屋探しに来た際に泊まったデイズインに泊まろうと思ったのだが,近くのモーテル6という宿の方が25ドルも安かったのでそっちに泊まった。午後2時の便だったので,宿でのんびりして,10時半くらいに宿を出発。かなりの雨模様。早く着いてもしょうがないので,わざと有料道路を避け,空港まで10マイルくらいのところでガソリンを満タンにし,最後は有料道路を使って空港へ向かおうと・・・していたのだが,ナビなしだというのもあって,有料道路への出口を出損なってしまった。さらに,反対車線は事故でもあったのか,大渋滞。しょうがないので,その道を戻らずに,一般道で空港に向かうことに方針変更。さらにボストン市内に入る手前くらいで一本道を間違えてしまい,さらに時間のロス。ということで,空港のレンタカー屋に着いたのは12時過ぎ。

スーツケース2つと本ばかり入った大きめのバックパックに大小ラップトップ他の入った小さいバックパックをもってレンタカー屋のバスでターミナルへ。大きいバックパックは規定からいったら重量オーバーなので,ちょっとだけ冷や冷やするも指摘されることもなく,セキュリティチェックも無難に通り抜け,搭乗口へ。そしたら,搭乗口でもランダムに手荷物をチェックするとのこと。自分が当たったら,荷物が思いし面倒だなと思っていたが,何とかセーフ。だけど,このせいもあって,出発が40分くらい遅れた。


実は,カンタスのマイレージでアメリカンを予約したせいか,事前に座席を予約できなかった。まいずれにしても,その結果,3列席の真ん中だったのだが,運の悪いことに,通路側には,がたいが大きい女性が・・・ 明らかに彼女の太ももが私の座席にまではみ出し,窮屈な思いをすることとなった。

で,着いたのがシカゴ。今回の渡米にあたり,とーっても世話になった日本人の高橋さんのお宅を2年半の旅の最後におじゃますることに。

家は,シカゴの街中のリンカーンパークがすぐそばの閑静な住宅街のアパート。玄関前にガス灯が付いてるようないい感じの通り沿い。

夜は,近くにある有名なブルースのお店に連れて行ってもらった。クラークの身分証が使え(そういえば返してなかった),無料で入れることに。

 

観光客らしき人も多かった。高橋さんの家は,そういうところに歩いていける地域にあるのでああった。

なんと,メニューリストをはさむやつに,Samuel Adamsの文字が。


翌日は,午後から近くのリンカーンパークを散策。動物園やら,植物園をぶらぶらし,ミシガン湖畔からシカゴの摩天楼を眺めたりした。





夕食後には夜景も見に行った。


明けて木曜日,高橋さんの職場のノースイースタン大学に連れて行ってもらい,その途中でシカゴ・カブスの本拠地リグレーフィールドに。


なんとこの球場すぐそばのアパートの屋上部分が,ブリーチャー席にもなっているらしいというから驚き(下の写真の右側が球場で,電信柱左の部分がそのブリーチャー席)。

というわけで,あとは24日午前11時10分発のJAL便で帰国するのみ・・・

2011/09/15

ニューヨーク 10年後の911(3)

夜までの時間つぶしとして選んだのは国連本部。

有料のツアーに参加しないと総会や安保理の会議場には入れないとのことだったので,16ドルのツアーに参加。

総会の会議場。

AK47って30ドルで買えるところもあるんだって。下のはコロンビア人開発のギターらしい。

広島からの展示物。

改めて思ったんだけど,国連ってやっぱり理想主義だよね。911の式典とある意味で対照的な感じだった。

安保理会議場。

入口にあるオブジェ。

早めの夕食を吉野屋でとった。試しに牛丼を頼んでみたのだが,さすがに看板背負ってるだけあって,吉野屋の味だった。6時前だったけど,客もいっぱい入ってた。

下は,たぶん,パトカーたちが役目を終えて本来の持ち場に戻るところ。



夕暮れ時のタイムズスクエア。



 そのあと向かったのが,ハドソンリバー沿いで,日本人コミュニティなどが中心となって行っているという灯籠流しを見に行くことに。仏教だけでなく,他のいくつもの宗教関係者が一堂に会して,特定の宗教の立場でないことを強調し,さらに,あいさつなどで311の地震と津波被害に何人もが触れるなど,被災者に対する哀悼の気持ちを前面に出していた。多くの一般のアメリカ人は,こういうスタンスに対してどう思うのだろう,と思った。戦後の日本人の典型的なスタンスは,脱政治的,脱宗教的を是として,被災者やその遺族に対する共感やお悔やみの気持ちでつながろうとしていたと思う。でも,タイムズスクエアに掲示された"remembering"とか"never forget"って,それと同じじゃないんじゃないかって思ったわけ。

暗くなると,南方に一筋の光がくっきりと。これを見るのも目的だったのだが,ツインのはずじゃなかったっけ? 角度が悪いのか?

さて,灯籠流しは,多くの人のスピーチや歌などで引っ張るだけ引っ張り,8時半くらいだったか,ようやく始まった。ロウソクではなく電球だし,川の流れがないから,カヌーで引っ張って途中で紐をはずす,みたいなことをしていたので,まあ,正直,ちょっと拍子抜けだったが,限られた状況であるのでしかたのないことではある。




どうにかしてツインを見ようと,Houston Streetから何ブロックも歩いたら,ようやく見えた。地下鉄を使う手もあったのだが,日曜の夜で本数も少ないし,歩いた方が早いのではないかと判断したのだが,さすがにこの段階で足がフラフラ。ふだんの運動不足がたたっていることは言うまでもない。


翌9月12日。ボストン行きの飛行機は午後の便だったので,平日のウォール街を見て,フェンスの取り払われたグランドゼロ付近を歩いて帰ろうと決めていた。

まずはウォール街。



近くの出店。

ワールドフィナンシャルセンター二階からよく見えるということだったので行ってみた。例の水場も遠くからだけど見ることができた。

無料だということもあって,たくさんの観光客がガラス越しにグランドゼロを眺めていた。

地下鉄構内のユニクロの広告発見。

ラガーディア行きのバスを待つ航空会社関係者。

バスでラガーディアに戻るとき,デルタのターミナルで降りたんだけど,デルタシャトルは別ターミナルといわれ,シャトルバスに乗り換える不始末(苦笑)。

帰りの飛行機から見たケープコッド付近(たぶん)。

というわけで,おしまい。

ニューヨーク 10年後の911(2)

マンハッタンに入る前に最初の地下鉄の駅で乗り換える予定だったのだが,案内がよくわからず,結局マンハッタンの地下鉄の駅でバスを降り,地下鉄で南下。

ワールドトレードセンター周辺の地図をグーグルマップで入念に下調べをし,Felton Streeetという駅で降りることにした。出口は一箇所以外閉鎖されており,地上に出る前から,さすがにさっきまでとはちょっと違う雰囲気。(下の写真は別の駅)

地上に出ると,たくさんの人で溢れていたが,人の数という点では,とくに911だから多かったってわけでもないかもしれない。
セントポールズチャーチヤード(たぶん)。

反政府的なものもちょっとだけ見かけた。

こういうフェンスが,グランドゼロを大きく囲っていて,近づけないようになってた。


一箇所だけ,少し近づけるところがあって(たしかChambers StreetからWest Broadwayを南下するというみちだったような),その奥に式典をモニターする巨大スクリーンもあって,かなりの人混みに。式典では,オバマ大統領も演説したらしいが,それには間に合わなかった。

式典の大半は,遺族が二人ペアになって,被災者の名前を交互に五人ずつくらい読み上げていき,最後に自分の家族,恋人などの名前を読み上げ,一言添えるという形式を,くり返していくというもの。


 セキュリティも厳しく,前に進むためにはかなりの時間を要した。


たまたま,ノースタワーが倒れた時間に立ち会うことに。

たまたま,ポールサイモンをスクリーンで見ることに。ずいぶんふけたなあ・・・

ニューヨーク市主催の場所があるという情報を元に,再び南下しズコッティ・パークへ向かった。そしたら,なんのことはない。別のスクリーンがあるだけで,別の式典をやってるわけではなかった。こっちのセキュリティはバックパックの携帯不可だった(さっきのところはOKだったけど)。ただこっちの方が人が少なく,スクリーンまでの距離はさっきと大して変わらないところで見ることができた。

アメリカ人の大好きな旗をロープで取り付けたセスナが,上空を何度か飛んでた。



12時半終了予定だったが,一時間近くオーバーして終了。

終わってもなかなか立ち去らない人も多かった。